夜天光
やてんこう
前編
暗い公園を急ぎ足で、歩く。
すっかり遅くなってしまった。
九月も終わりに近付き、あんなに響いていた蝉の声も、とうに鈴虫や松虫に
鳴き変わっていた。
夏はすっかり息を潜め、秋の気配が色濃くなる。
空気は冷ややかになり、薄い長袖では寒さを感じた。
シンジは空気を大きく吸い込む。
草や芝独特の甘い香りがする。
昼の間に誰かが、下草を刈ったのだろう。
夏には不快だった其の匂いも、今はむしろ心地良いくらいだ。
ふと、足を止め、空を見上げる。
今夜は薄月夜。
仄白く、月が照らす。
あれから一週間、シンジはカヲルとは一度も顔を合わせていない。
学校にいる間でさえも、カヲルの姿を見掛けると、逃げるようにその場を離れる、
そんな事を繰り返していた。
シンジは溜め息をひとつ、吐く。
「・・・・・・・・・・・」
* * *
その日は朝から雨が降っていた。
夏の余韻を残す雨は、ただ、だだ、鬱陶しく土を泥濘に変える。
終業した校舎の中は静かで、廊下をを鳴らすシンジの足音ばかりが響く。
カヲルとは図書室で待ち合わせている。
今日はカヲルに、演奏会の為の散らしの図案を頼むつもりだった。
去年、彼が手掛けた散らしの図案はなかなか好評で、演奏会の人の集まりも
まずまずだった。
今年も其の恩恵に与るつもりで、シンジは図書室に急ぐ。
シンジは図書室に明かりが灯っているのを見て、カヲルが先に来ている事を知る。
直に中に入ろうとして、足を止めた。
カヲルは一人ではなかった。
従姉妹のアスカと一緒だ。
アスカは、本の広げられた机に腰掛けカヲルと話をしている。
立ち聞きするつもりは無かったが、入る機を見失った。
シンジは入り口で佇む。
二人の会話が耳に入って来る。
「11月に発つんでしょ?」
「ああ・・・・」
「準備は進んでる?」
「まだ・・・・何も。」
「おっそいわね〜。時間なんてあっという間よ。もたもたしてる間に
出発の日なんてきちゃうんだから。
でも、いいわね。留学なんてさ、」
飛び込んできた其の言葉に、シンジは自分の耳を疑う。
誰の事を言っているのか、俄かには理解できない。
「そう?・・・・」
「そうに決まってるじゃない、色々な事を経験してくるのはいいことだわ。」
「そうだね、・・・・」
カヲルは気のない返事を繰り返す。
「浮かない顔ね・・・折角の機会なのよ、もっと嬉しそうな顔したら?」
留学。
そんな話は聞いた事もない。
まさか、という思いが脳裏を過る。
思わずシンジは飛びだしていた。
「ねえ、留学ってどういう事?」
カヲルとアスカが驚いてシンジを見る。
「・・・・、カヲル君の事じゃないよね?違うよね?」
「・・・・・・・・」
カヲルは何も答えない。
けれど、 其の表情は明らかに、シンジの質問を否定していた。
「だって・・・・カヲル君そんな事、一言も言って無かったじゃないか!」
シンジの声が、図書室に響き渡る。
「・・・・シンジ君、聞いて・・・・」
カヲルが席を立つ。
けれど、シンジは二人に背を向けると、その場を走り去った。
「シンジ君!!」
遠ざかるシンジの足音。
カヲルは黙って、シンジが走り去った廊下を見つめた。
「・・・・・まさか・・・あんた、留学の事、シンジに話してなかったの?」
「・・・・・・」
シンジは雨の中、傘も差さずに飛びだした。
絶え間なく降り続く雨は、容赦無くシンジを濡らす。
「どうして・・・・・?」
シンジの頭には答えの無い疑問がぐるぐると巡り、その出口を求めて彷徨う。
自分にとって、カヲルは誰よりも気の置けない友人だと思っていた。
それなのに、留学などという重大な事柄に付いては何一つ相談を受けなかった。
其の事実が、よりシンジを追い詰める。
足を止め消炭色の空を見上げながら、シンジは自分の心の何処から
手を付けたらいいのか分からないまま、考え込むしかなかった。
* * *
「碇君・・・・・」
厳しい声で名前を呼ばれ、シンジは我に返る。
「ちゃんと自分の音、聴いてる?」
レイが、ジンジを見ている。
「ご・・・ごめん」
シンジは慌てて弓を持ち直す。
「・・・・もういいわ、今日は終わりにしましょう。」
そう言うと、レイはさっさと譜面を閉じた。
「あ・・・綾波、ごめん、今度はちゃんとするから・・・」
シンジがそう言うのも聞かず、レイは楽器をしまう。
「このまま続けていても、無駄だわ。他の人にも迷惑がかかるもの。」
「・・・・・・・・」
レイは教室を出て行く。
「・・・・馬鹿シンジ!」
「アスカ・・・・・」
一緒に練習に参加していたアスカも、不機嫌に譜面を閉じ、楽器をしまう。
「あんた、いつまでも逃げてたって何の解決にもならないわよ。」
アスカもそう言い残し、教室を出ていった。
シンジは、そんな二人の背中を見送るしかなかった。
一人残されたシンジは暗澹たる気持ちになる。
アスカの言う事も尤もだ。
このままカヲルから逃げ回っていても、何の解決にもならない。
けれど、このままの状態を続けていれば、やがてカヲルの出発の
日が来て、それで終わりになる。
あの時、本当に悲しかったのは、カヲルが留学するという
事実なのではなく、カヲルが自分に何の相談も無く
留学を決めていた、という事だ。
自分がカヲルにとって、其の程度の存在だったという事実が
何よりも応えた。
何故、自分に一言も留学の話をしてくれなかったのか、
シンジは、それをカヲルに問いただす勇気を持ち合わせてはいなかった。
今更どんな顔をして、カヲルに会えばいいのかも分からない。
ましてや、カヲルの口からはっきりと自分の存在を否定されたらと思うと、
ますます心は頑なになる。
そして、そんなシンジの心とは裏腹に、碧天は眩しく
憂鬱な程に目に染みた。
後編
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